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アルヲタ33年目の雑記帳
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大地震から2日が経ちました。
地震発生は仕事中。
ちょっと仕事が途切れた時間で、なんとなくPCをいじっていたのですが、
突然「ガタガタ」と揺れ出しました。
ここのところ何回か地震が続いていたので、またか、と思いましたが、
今までのようなゆっくりした横揺れとは明らかに違いました。
そして収まるどころがどんどん大きくなっていきます。
え?え?なに?でかい??
そして建物がしなるような大きな揺れ。
あわててデスクの下に入りましたが、大きな揺れは収まりません。
なんだこれは?
でかすぎる。
何かが倒れる音。
照明が消える。
すぐ横で、壁に掛かっていた大きなホワイトボードが落下。
とうとう来たのか。
終わりか?
先日のニュージーランドのビルの映像や、
嫁さんのこと、家のこと、実家の家族のこと、ウチにいる猫のこと、
命の危険にさらされている状況で、なぜだか、
仕事で使っている現像機がこのあと使い物にならなくなるだろうなとか、
様々なことが瞬間的に頭をよぎりました。
長い揺れがようやく収まり、デスクの下から出てみると、
一人では持てない重さの物が有り得ない位置まで飛んでいたり、
足の踏み場がないほどいろいろな物が散乱。
PC本体が倒れて隣のデスクまで移動。
大型のプリンターやコピー機もストッパーが外れて向きが変わっています。
自分のいたフロアはその程度でしたが、
廊下に出てみると棚が倒れて物が散乱し、
壁や天井の塗装が剥がれ落ちて床に広がっていました。
とにかくビルの外に出て、携帯でネットやワンセグから情報入手。
宮城で震度7。
埼玉の一部で震度6。東京も5強。
そうしている間にも余震が続きました。
少し落ち着いたところで身内に連絡を取ろうとしましたが、
当然ながら繋がりません。
地震発生から1時間ほど経った頃、携帯に着信が。
沖縄にいる妹からでした。
「よかった。やっと繋がった。みんなにかけてたんだけど誰も繋がらない!」
「テレビ見てたらひどいことになってるって言うし」
「埼玉も大きかったって聞いて、江戸川が決壊したとか言ってるし!」
泣いて言葉にならない妹に、大丈夫だからとにかく落ち着くように言って、
実家と連絡が取れたらそっちにも電話するからと言って切りました。
結局仕事は打ち切りになってしまい、帰宅することになりましたが、
電車が全てマヒした状態ではどうすることもできません。
歩くしかないのかとも思いましたが、会社から横浜の自宅までは60km以上。
現実的に考えて、到底無理な距離。
結局、職場の先輩に車でJRの駅まで送ってもらい、
電車の運行再開を待つことにしました。
駅は人で溢れかえっていました。
タクシー待ちの行列も有り得ないほどの長さ。
今考えれば、あの時点では状況を甘く見すぎていました。
JRは終日、運転見合わせを決定。
さてどうしよう。
そうこうしているうちに、やっと実家や嫁さんと連絡が取れ、
全員の無事を確認。
しかし、嫁さんは横浜市内の仕事場から歩いて帰るとのこと。
それが一番の心配事に。
しばらく駅周辺にいたのですが、
これは無理をするより会社に戻るのが賢明と考え、
40分歩いて会社に戻りました。
途中、携帯の充電器用の電池と食料を買おうとコンビニに寄りましたが、
食料はかなりの品薄状態。
時刻は20時前。
中山道は徒歩帰宅者の行列。
夜になって私鉄各線が少しずつ運転を再開し始めましたが、
待っていた人達が殺到して、
混雑でまた運転を取りやめという情報も入ってきました。
深夜3時。
Twitterに混雑も無くなってきたというツイートが増えてきたので、
私鉄を乗り継いで帰ることにしました。
駅で尋ねてみると、都営三田線は1時間に1本の運行。
タイミング良く、10分待ちで乗車。
日比谷から東京メトロ日比谷線、中目黒から東急東横線で横浜へ。
帰宅したのは朝6時過ぎ。
11日の朝、いつものように家を出てからほぼ丸一日。
まさかこんなとんでもない一日になるとは…。
被害状況もさらに酷くなり、
福島の原発も危険な状況。
余震も一ヶ月程度は警戒しなければいけないとのこと。
まだまだ気の抜けない日々が続きますが、
甚大な被害を受けた地域に比べれば、
自分の状況は大したことじゃありません。
小さなことでも、自分のできることをしたいと思っています。
こうしている間にも、まだ余震が続いています。